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saigoofy

対人、あるいは猫とのルールについて

今日、宿酔いの頭でベランダでぼけっとビールを飲んでいたら家にいる猫もベランダに出てきて足にじゃれついてきた。ついでと思ってベランダに置いてあるくしで猫の背中の毛をブラッシングしてやっていたら「んーー」とアゴを突き出したので「ほう、そこがいいのか」と思ってぐいぐいアゴをとかしつけてやった。くしが引っかかったのかそれとも予想より痛かったのか、どのタイミングなのかはわからないのだが猫の気に障ったらしく、突然くしを持っていた手を爪で鋭く引っ掻かれ出血した。かなり痛かったのだが、相手にしてみれば痛い事をされたので手を出した(当然。)という心情だろう。悪い事をしたとも思っていないだろうし、悪びれる様子もないので、しょうがないな、と思ってすぐに手を洗いに洗面所へ行った。特に怒りは湧いてこなかった。猫は洗面所までついてきた。

引っ掻かれた手は痛かったのだが、怒りはない。なぜ猫に怒りを感じないのだろうか?というのがこの話の肝である。

ここで例えば猫が、「あ、ヤッベやってもうた。悪い事したなあ。つい手が出たぞ」と思って、謝ってきたらこちらも頭に来ただろうし、怒ったと思う。「悪いと思ってるならするな。謝っても、何が変わるというものでもなし」という事である。しかし猫は謝らず、悪びれもしない。

ポイントとなるのは「相手(猫)には悪い事をしたという意識がまったくないだろう」と自分が認識しているということだ。猫本人にしてみれば『アゴの下を攻撃してきたモノ(手)を撃墜した』程度にしか思っていないだろうし、ここでいくら自分が猫に怒り散らしても、また同じ状況になったら猫は同じように手に攻撃を加えるだろう。そう考えると、猫を叱りつけ、人間の手を爪で引っ掻くという事がいけない事だと理解させるよりも、もう猫のアゴの下はブラッシングしないというルールを設定した方が賢明である。

これは理解の放棄か?いや、違う。これこそが理解の形である。

猫には猫のルールがあって、たまたま今は自分と居合わせているだけで、こちら(人間)の善悪の基準は知るべくもないだろうし、それはこちらも一緒だ。肝心なのはお互いがお互いへの干渉の仕方を学ぶという事である。そして、このスタンスは人間同士にも適応される、と私は思う。

ほとんどの人間は、人間との約束(浮気しない、金を返す、時間に遅れない、皿洗いを終わらせておく、サスペンスをビデオに予約する、etc...)を破ると、謝る。約束を破られた相手にしてみれば、謝られても約束は守られたわけではないのでなんにもならない。しかも謝るという事はその人は約束は守るべきだ、というルールの上で生きているという仮説が成り立つ。ややこしい。これが「約束?しらねえよ」という人間相手なら破られた方も怒りなどわいてこないし「あ、この人には約束を守るという哲学がないんだ」と知ることが出来、その後、その人との関係を自分なりに築けば良いのであるが、謝られるときというのは「謝られても、まあ何が変わるものでもないし」という状況が殆どである。謝るという行為は自分が赦されるためにするわけではないとすると、一体どういった意味合いがあるのだろうか?

そもそも「ごめんなさい」なんて他人に言う必要はないのだ。自分で悪いと思っている事はしなければ良い。悪いと思っていなければ、好きにするべきだ。そうして生まれた他人との摩擦、それが自分の人生というものであるし、そうでもしないと嘘をついて生きている事になる。浮気を例にとると「浮気なんてまったく悪いとは思わないよ」と思っている人は好きに浮気をしまくるべきだし、付き合っている相手にもそう言うべきである。それにより誰とも付き合えなくなるかもしれない、という危惧があったとしても、それがあなたの人生なのだ。(まあ「浮気は悪い事だと思わない」と考えている人間は大勢いるだろうけれど。)その自分を隠して(浮気は悪いと思っているように振る舞って)生きるから後々謝る羽目になるのだ。相手にしてみれば「謝られても遅い」と感じるだろう。あなたは自分を騙し、他人をも騙していたのだ。極悪人である。もしあなたが「浮気はいけない事だ」と考えているならば、しなければいい。シンプルである。

猫なんて生き物は何をやっても謝らないが、しかしまったく謝らないからと言って猫と自分の関係が悪化するわけではない。お互いの間のルールがはっきりとするだけである。お風呂マットを敷きっぱなしにしておくと猫にトイレに使われるとか、アゴの下をくしでブラッシングすると手を引っ掻かれるとかね。怒っても無駄、謝っても無駄。ルールの明確化。お風呂マットの収納。アゴの下は触れない。そういうことである。